数年前に伊藤正一さんの「黒部の山賊〜アルプスの怪〜」と鬼窪善一郎さんの「黒部の山人〜山賊鬼サとケモノたち〜」を読んで、その世界に魅せられて以来、北アルプスの最奥部、黒部源流域をいつか訪ねてみたいと思っていた。2023年8月、ついにその機会を得、主人と二人で4泊5日の山旅に出かけた。
行程は以下のとおりである。
一日目:折立登山口→三角点→太郎平小屋→カベッケが原→薬師沢小屋🏡
二日目:薬師沢小屋→奥日本庭園→祖母岳→雲ノ平山荘🏡
三日目:雲ノ平山荘→スイス庭園→祖父岳分岐→祖父岳頂上→岩苔乗越→岩苔小谷→水晶池分岐→高天原山荘🏡
四日目:高天原山荘→高天原峠→大東新道⚠️→薬師沢小屋🏡
五日目:薬師沢小屋→カベッケが原→太郎平小屋→三角点→折立登山口
この道のりをテント泊の装備を背負って歩くのは不安だったので、今回は山小屋泊まりにした。わたしの体力を考えるとこれは正解だった。
「黒部の山賊」の世界を訪ねて
昭和38年(1963年)の薬師岳遭難事故の慰霊碑
折立登山口を入ってすぐの所に、昭和38年(1963年)に起きた薬師岳遭難事故の慰霊碑がある。厳冬期の一月、薬師岳登頂を目指した愛知大学山岳部13名が三八豪雪による想像を絶する猛吹雪と寒気のため全員遭難死した。この慰霊碑はその13名の慰霊のために、ご遺族と関係者によって設置されたものである。この事故を教訓に、昭和40年(1965年)山岳警備隊が結成され、その後多くの人命救助に活躍することになる。
二遺体が見つからないまま夏の登山シーズンも過ぎ、九月なかばには北アルプス一帯は新雪におおわれ、ふたたび寒い冬がおとずれてきたが、あきらめることなく、涙ぐましい努力をつづけていた彼らの父親自身の手によって十月十三日に二遺体は発見された。場所は、はたしてカベッケが原寄りの方向だった。
「黒部の山賊」、121ページより

有峰湖(旧有峰集落)・薬師岳
うっそうとした樹林帯を抜けて三角点を過ぎると、開けた道に出た。後ろのほうを振り向くと、有峰湖が見えた。有峰湖は最大貯水量2億トンを誇る富山市民の水源で、ダム湖百選にも選ばれている。このダム湖の下にかつて人々が暮らした伝説の有峰集落がある。
有峰集落は平家の落武者の末裔だといわれているが、一説には成政1が、隠した金の番をさせるために人を住まわせたのだといい、「ここから見える範囲がお前たちの領地だ」と言って、領地をあたえたのだという。
「黒部の山賊」、81、82ページより
村はダム工事のため大正10年(1921年)ごろに廃村、昭和35年(1960年)に沈んだ。有峰集落の歴史と民俗について書かれた「有峰の記憶」(桂書房)によると、有峰の人々にとって薬師岳は信仰の山だった。「重い病も薬師に祈れば治る」と信じ、旧暦の6月15日には村の15歳から50歳までの男子が総出で頂上に登り、参拝したという。

カベッケが原
薬師沢小屋に着く少し手前に、あのカベッケが原がある。「黒部の山賊」の随所に出てくる、人を化かすカッパがいる原っぱ。
それから彼はいちだんと神妙な顔をして、
「おまえたち、山で“オーイ”という声がしたら返事をしちゃあいけねえぞ、登山者なら“ヤッホー”と言うが、“オーイ”と言うのはバケモノだ」
「ほう。“オーイ”と言えばどうなるね」
「“オーイ”と言った者は“オーイ オーイ”と呼び交わしながら行方不明になってしまう。返事をするなら“ヤッホー”と言え。そうすればバケモノのほうが黙ってしまう」
「黒部の山賊」、94ページより
この言い伝えを知って、ここを通る時は少なからず緊張した。周囲にほかにだれもいないし、「オーイ」という声が聞こえたらどうしよう〜😱、そんなことを考えると歩調が早くなった。本当にそんな声が聞こえてきそうな所だった。
黒部川と薬師沢の出合い
黒部川の源流と薬師岳から流れてくる薬師沢との合流点(出合い)に薬師沢小屋がある。かつてここは「山賊」たちが岩魚釣りをした場所である。
立石に岩小屋があって、それから薬師沢の出合に昔の鉱山小屋があって、それから上に来て五郎沢の下に、自分でこしらえた小屋があってね、そこでやったんだ、三つの小屋があってね。それで三俣の小屋から出て、上でもって、五郎沢の小屋に泊まって一週間釣れば、真ん中の小屋へ行って、そこで一週間釣って、こんだ下の立石の岩小屋へ行って一週間釣る、そういう具合にしてやってたんだ。
「黒部の山人」、64ページ
泊まった薬師沢小屋には登山者だけでなく釣り人も多く泊まっていて、この日、30センチもある大きな岩魚を釣った人もいてにぎわっていた。黒部の源流には岩魚がまだたくさんいると言う。ちなみに、ここでは釣ってもリリースすることになっている。

自炊室に黒部川本流の増水時の写真がかかっている。小屋前の穏やかな流れが雨天時にはこうなるのか、う〜ん😰この写真を見ながら、「黒部の山賊」に書かれていた、昭和24年8月末から9月にかけて襲来したキティ台風のことを思い出した。このとき「山賊」の林平はカベッケが原に岩魚釣りに行っていて一週間行方不明だったが、奇跡的に生還した。その時の様子がこう描かれている。
わたしは喜んで声をかけようとしたが、いつも冗談を言いながら入ってくる林平が、神妙な顔をしてだまっているので、なんだか様子が変だと思って見ていると、彼は戸外でおもむろに手足を洗い、身なりをととのえてから、小屋の上り口へぴたりと座り、両手をついて挨拶を始めた。
「伊藤さん、遠山林平ただいま帰りました。人間というものは不思議なもので、生死のさかいをさまよっていると、あらゆる知人が次々に夢の中に現われました。だがこの源流の三俣山荘には伊藤さんがいると思うと、どんなに力強く、勇気をあたえられたかわかりません。私は大木に身体をしばりつけて夜をすごしました。薬師沢は向かい斜面に乗り上げて流れていました。いたるところに鉄砲水が出て、大木が吹き飛ばされ、こなごなになるのを見ました…」
林平の報告はつづいた。その日は風呂を沸かして彼を休ませた。
「黒部の山賊」、61、62ページ
雲ノ平から見る名山
薬師沢小屋から、樹林帯に囲まれた急登を登り切って雲ノ平に到着すると、そこは青空が広がる別世界。周囲は高い山々に囲まれ、左から時計回りに薬師岳、赤牛岳、水晶岳、祖父岳(鷲羽岳は祖父岳に隠れて見えなかった)、槍ヶ岳、三俣蓮華岳、黒部五郎岳がくっきりと見え、その美しさに息を呑んだ。
奥日本庭園
奥日本庭園あたりから、60年前の薬師岳遭難事故の現場となった東南尾根が正面に張り出してすぐ目の前に見えた。
スイス庭園
スイス庭園からは、薬師岳、赤牛岳、水晶岳が目の前に迫り、眼下にはこれから歩く岩苔小谷や水晶池、高天原湿原、そして高天原山荘の赤い屋根もポツンと見えた。「山賊」たちは獲物の少ない雲ノ平にあまり興味がなかったそうだが、ここスイス庭園からは彼らがクマやカモシカを追って走り回った山々や森林、湿原が見え、彼らの狩りをする様子が目に浮かんだ。
水晶小屋跡に着いたのは夕方だった。そこから双眼鏡で見ると、なるほど大きな熊が草地に寝ころがっている。鬼窪は荷物を置いて銃を持って走って行き、近寄りざま一発ぶっぱなした。熊はでこぼこの斜面を猛烈ないきおいで谷のほうへかけて行った。彼はあとを追いながらもう一発撃った。それきり彼の姿は見えなかった。こだまがかえってくるばかりだった。
「黒部の山賊」、47、48ページより
祖父岳から見る鷲羽岳、三俣山荘、黒部源流
雲ノ平の南東端にあるのが標高2825㍍の祖父岳。雲ノ平はその火山活動で形成された溶岩台地である。祖父岳の広々とした頂上からは、360度を名山に囲まれたすばらしい眺めが楽しめる。眼下には黒部源流が見えた。

岩苔小谷・高天原湿原
祖父岳から岩苔乗越を経由して、ゴールド・ラッシュの舞台ともなった岩苔小谷に入った。
岩苔小谷は別名を奥のタル沢といい、水晶岳と雲ノ平に挟まれた、滝の多い谷である。流域の大部分は原始林におおわれ、その森の奥に水晶池がある。この池は幅数㍍、長さ百数十㍍もあろうか、ルートからはずれているためにあまり知られていない。水面からはいつも、靄が立ちこめて妖気がただよい、山賊たちはそこに大蛇が棲んでいると言っている。
「黒部の山賊」、72ページ
岩苔小谷を歩いて思ったのだが今は当時と様相が違う?谷から流れるせせらぎはあったが、滝と呼べそうなものは見当たらなかった。水晶池もここ数年干上がっていて、かつての面影はない。それでも、「山賊」たちがここを通ったかもしれないと思うとわくわくした。道中、おいしそうな野いちごやブルーベリー、ナナカマドなどの木の実がいろいろなっていた。クマの大好物だ。クマにとって食べ物の少ない夏がようやく終わり、実りの季節が巡って来たのだ。ここにもきっと食べに来るだろう。今は昼寝中であることを願って歩を進めた。

水晶池から30分ほど行くと、高天原湿原がある。この湿原の水晶側斜面には、金鉱が出ると言って掘っていた大東鉱山の坑道が残っているそうだが、一般は立ち入れない。「山賊」の鬼さが大東鉱山に歩荷として雇われて食料運搬をやった所だ。高天原山荘に近い湿原の水はなぜか赤茶けていた。鉱山があったぐらいだから鉱物の色かもしれない。
高天原峠と大東新道
今回の山旅のハイライトは大東新道を通って薬師沢へ戻るコース。高天原山荘に貼ってある大東新道の地図に書いてあるように、戦前に高天原一帯(当時は岩苔平と呼ばれていた)でモリブデンの鉱石を岩苔乗越〜烏帽子〜七倉に運び出していた大東工業が昭和30年代に切り開いた登山道、それが大東新道である。

高天原山荘を出発して間もなくクマの足跡🐾らしきものを発見。まだ新しく、ついさっきここを通ったのかもしれない。近くにブルーベリーの実った茂みもあったしね😅
高天原峠を越えると、いよいよ大東新道。想像以上の急登で、薬師沢小屋から高天原山荘という逆コースを取っていたらさぞ大変だったろうと思う。ヘルメットをかぶって一歩一歩足場に注意しながら下って行った。

B沢が黒部川本流に合流すると広い沢沿いに出る。沢沿いを歩きながら、ここで岩魚釣りをする林平や鬼さを思った。A沢に向けて歩を進めると、岩魚を数匹発見。俊敏に動くその姿に感心した。本に書いてあったとおりだ。林平が下流から上流の向かって釣り上げていく様子がこう描かれている。
彼は流れのはたを、上流に向かって静かに歩きながら針を投げた。針を投げつつ歩く速さは常人がふつうに歩く程度だった。彼の手もとが軽くかすかに動くと、針は生きたもののように彼の思うところに落ちた。すると、まるで磁石にでも吸いつけられるように魚が吸いつけられてきた。つぎの瞬間、岩魚は空中をひらひらと舞うように飛んで、左手の手綱の中へ飛び込んだ。そしてそのときには針がはずれているのである。万一途中で針がはずれても、岩魚だけは手綱の中へ飛び込んでくる。まさに、見惚れるほどの名人芸である。「拾うよりも早い」と彼は言っていた。
「黒部の山賊」、58ページ
調子のいいときは半日で十貫も釣る林平だが、こんなエピソードもある。
林平は猟をするだけでなく、山と魚を愛していた。釣りの往復には必ず鎌を持って行って道端の草を刈りながら歩いた。また絶対に小さな魚は釣らなかった。まちがって小さなのを釣ったときは「来年まで、でかくなっていろよ」と言って逃してやった。一度私のビクに小さなのが一匹入っているのを見た彼は、さも惜しそうに「逃してやればよかったのに」と言った。
「黒部の山賊」、59ページ
沢沿いは大小の岩がゴロゴロしていて最初は歩きづらかったが、だんだんコツがつかめてきた。4日ばかり雨が降っていないので水かさは大したことがなかったし、足場も乾いていた。安全第一で歩いたので時間はかかったが、周りの景色を楽しみながら薬師沢小屋へ向かった。


ツキノワグマ
折立ゲートを出てトンネルを通過した直後、一頭目のツキノワグマに出会った。次に、有峰ダムを渡ってすぐ、二頭目にに出会えた。いずれもまだ小グマなのだろう、小さく見えた。野生のツキノワグマについに出会えた喜びはひとしおだ!
プチ・ハイライト
薬師沢小屋
黒部川と薬師沢との合流点に位置する薬師沢小屋。夕食に出た、富山名産のカジキの昆布じめがとても美味しかった😋😋😋。お弁当のちまきも超おいしい!
薬師沢小屋での暮らしを綴った「黒部の源流〜山小屋暮らし〜」の著者ヤマトケイコさん。受付に座って笑顔でわたしたち登山客を迎え、見送ってくれた。新しい著書「蝸牛〜登山画帖〜」が売店に置いてあったので購入。表紙裏に彼女のサインとイラストが入っているのもうれしい!
祖母岳
薬師沢小屋から雲ノ平山荘に向かう途中、祖母岳に登った。ここから見る雲ノ平山荘は何ともメルヘンチックである。

モルゲンロート
早朝、雲ノ平山荘から雲ノ平キャンプ場に向かう途中、薬師岳のモルゲンロートを見ることができた。

高天原山荘・高天原温泉
高天原はランプの宿。暗い時刻はランプの灯りが点る。何とも風情がある。

日本最奥の温泉、高天原温泉は山荘から歩いて30分ほどだった。女性専用風呂でゆっくりとお湯に浸かった。良いお湯だ、もう最高!😆

- 左々蔵之介成政。戦国時代の越中富山の城主。 ↩︎
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